電子足跡:山の辺の道歩き旅
古事記・日本書紀にその名がある日本最古の道
飛鳥・藤原京 仏教伝来地から奈良の大仏へ
Photo Gallery 奈良時代から藤原京/飛鳥時代へ歴史を遡る
プロローグ
このページは奈良盆地の東側の山里に続く、『山の辺の道』 を歩いたページです。和銅5年(西暦712年)に書かれた『古事記』、養老4年(西暦720年)書かれた『日本書紀』にその道の名前が記されています。『古事記』『日本書紀』にその名前が記されている事から、山の辺の道 は日本最古の道と言われています。
スタート地点は、世界遺産登録が期待される『飛鳥・藤原の宮都』が在り、大和川の舟運で大陸との繋がりがあった、最古の交易の市 "海柘榴市(つばいち)" の仏教伝来地、現在の奈良県桜井市金屋です。
ゴール地点は、その仏教文化が花開いた奈良市東大寺の奈良の大仏(盧舎那仏)としました。
この地で6世紀末から7世紀末に古代日本が成立し、その後の日本の形の基礎をなす地の藤原宮跡や、多数の古墳、神社仏閣が里山の中に続き、そして最後は多くの観光客で賑わう春日大社・東大寺の奈良の大仏(盧舎那仏)の厳かな中にも人々の活気が感じられる、古代から現代まで、時間と空間を行き来する1300年に渡るタイムトラベルです。
以下は古事記の記述
崇神天皇条 原文抜粋:
《原文》御陵在山邊道勾之崗上也
《読み下し文》御陵は山辺道やまのへのみちの勾の岡まがりの
おかの上ほとりに在ある也なり。
景行天皇条 原文抜粋:
《原文》御陵在山邊道上
《読み下し文》御陵は山辺道の上ほとりに在り。
7世紀後半から8世紀後半に成立した万葉集には
石川郎女(いしかわのいらつめ) 万葉集 巻4‐518
《原文》春日野之 山邊道乎 与曽理無 通之君我 不所見許呂香聞
《読み下し文》春日野の 山辺の道を 恐なく 通ひし君が 見えぬころか
《現代語訳》春日野の山沿いの険しい山辺の道を、
恐れもせずに私の元へと通ってきてくれたあなたなのに、
近頃はさっぱりお姿が見えないことです。
などをはじめ、山の辺の道にまつわる多くの歌が収録されています。
山の辺の道ルート地図
| 都道府県 | 区間 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
| 奈良県 |
桜井駅~天理駅 | 2026/05/12 | 16.0km | |
| 奈良県 |
天理駅~東大寺 | 2026/05/13 | 18.8km | |
| 合計 | 34.8km |
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| ↑GoogleMapと地理院地図に GPSログと写真がマッピング された地図が開きます |
GPSログを GoogleEarthでツアーする方法 |
カシミール3D フリーソフト轍 国土地理院
飛鳥・藤原の宮都
山の辺の道のスタート地点は、日本という古代国家が成立した地 "飛鳥・藤原京" が存在した土地です。飛鳥・藤原京の歴史
奈良盆地の南に位置する、飛鳥宮・藤原京の始まりは、飛鳥時代(6世紀末~7世紀末)の592 年推古天皇が飛鳥の地に宮を置いた事から始まります。その当時は天皇が代わるごとに都が飛鳥の中で移動していました。
645年:飛鳥板蓋宮で中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した『乙巳の変』をかわきりに『大化の改新』が進み天皇中心の政治体制に変わりました。
672年:壬申の乱 天智天皇(在位668~671)の死後、皇位継承をめぐって弟の 大海人皇子(おおあまのおうじ)と、息子の 大友皇子(おおとものおうじ)が争い、大海人皇子が勝利しました。
673年:勝利した大海人皇子は即位して天武天皇(在位673~686) となり、天皇中心の強力な中央集権国家をつくり、『天皇』という称号や『日本』という国号を定めました。
686年:天武天皇崩御。子供である草壁皇子は皇太子として政務を行い、草壁皇子を補佐する形で皇后であった鵜野讚良皇女(うののさららのひめみこ)も政務に関わりました。
689年:草壁皇子が28歳で亡くなる。
690年:天武天皇の皇后 鵜野讚良皇女 が即位して 持統天皇 となる。
天武天皇が進めていた、藤原京の建設を持統天皇が引継ぎ、建設を 推進。
694年:藤原京創都。以後、持統・文武・元明 3代の皇居となる。
710 年:元明天皇が平城京に遷都したことで、藤原京は廃都となる。
藤原京の広さ
東西約5.3km 南北約4.8~5.3km 総面積約25平方km
現在の品川区の面積は約23平方kmですので品川区より少し広いです。
そこに2~5万人住んでいたと推定されています。

注:国土地理院航空写真に筆者が加筆したものです

橿原市藤原京資料室に展示してあったジオラマの写真に筆者が加筆したものです
大極殿跡から北方向の内裏方面

大和三山
香具山

持統天皇 万葉集 巻1‐28
《原文》春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
《読み下し文》春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
この持統天皇の和歌は高校の古文の教科書に載っていました。
上の香具山の写真は大極殿跡の少し北側から東南方向にカメラを向けて撮影しました。持統天皇は藤原宮の内裏から見える6月頃の香具山の風景を詠んだのではないかと想像を逞しくしました。
畝傍山 耳成山


中大兄皇子(天智天皇) 万葉集 巻1‐13
《原文》 《書き下し文》
高山波 雲根火雄遠等 香具山は 畝傍ををしと
耳梨與 相諍競 耳成と 相あらそひき
神代従 如此有良之 神代より かくにあるらし
古昔母 然有許曾 古も 然にあれこそ
虚蝉毛 嬬乎 諍良之吉 うつせみも 妻をあらそふらしき
スタート地点 桜井市 仏教伝来の地
馬井手橋
大和川に架かる馬井手橋を渡って旅のスタートです。

大和川


仏教伝来の碑
馬井手橋の北詰に建っています。

何故この地が仏教伝来の地と言われているのか?
説明板を要約すると、
この河畔一帯は磯城瑞籠宮(しきのみずかきのみや)・磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)や 最古の交易の市 "海柘榴市(つばいち)" などがあり古代大和朝廷の中心地でした。
そして、この付近には現在の大阪湾(難波津)から大和川を使った舟運の終着地で大和朝廷と外交を持つ国々の使節が発着する都の川湊がありました。
日本書紀には
《原文》冬十月 百濟聖明王 遣西部姬氏達率怒唎斯致契等 獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷
と書かれています。
《現代語訳》欣明天皇の十三年冬十月(西暦538年)に百済の聖明王は、使者として西部の姫氏(きし)である達率(だっそつ)の怒唎斯致契(ぬりしちけい)らを遣わし、釈迦仏の金銅像1体、仏を飾る旗や傘(幡蓋)、そして経典や論書(経論)を数巻献上した
との事で、仏像や経典が朝鮮半島→対馬海峡→瀬戸内海→大阪湾→大和川を通って伝わったとの事です。
1500年ほど前、船も航海術もそれ程発達していなかったと思われる時代に、よくぞこんなにも長旅をしたものだと思います。
因みに、現代の大和川の流路は下の地図の青線で、古代とは流路も大阪湾の海岸線も変わっていると思いますが、大阪湾から仏教伝来地まではおよそ50㎞くらいです。
大和川流路

金屋地区
大和川を渡って数100mほどの所にある集落です。
古代はここが交易の市 "海柘榴市(つばいち)" があり、現代で言えば銀座のような賑わいだったのかもしれません。




金屋の石仏


詠人不知 万葉集 巻13
《原文》式嶋乃 山跡乃土丹 人二 有年念者 難可将嗟
《読み下し文》磯城島の大和の国に人ふたりありとし思はば何か嘆かむ
《現代語訳》
この磯城島の大和の国に、私の愛する人が二人もいると思うのなら
何を嘆くことがありましょうか。私の愛しい人はあなた一人だけ
なのですから。
注:磯城島(しきしま)は現在の金屋付近の地名
三輪山平等寺
西暦581年聖徳太子の開基と伝わるお寺です。朱色の赤門・本堂・二重塔釈迦堂が緑の木々に映えて美しい佇まいです。


大和三山のうち 畝傍山/耳成山
三輪山平等寺から大神神社に行く途中で見えた奈良盆地の風景

大神(おおみわ)神社
三輪山を御神体とする日本最古の神社のひとつです。本殿は無く、拝殿から三輪山を拝むという古代の信仰の形を継承しています。
まだ、神代の時代、大物主大神は『私を大和の東の山(三輪山)の上に祀りなさい』と要求し、三輪山に鎮座しました。
崇神天皇の御代になると、三輪山信仰が廃れ、その祟りか疫病が蔓延します。崇神天皇は夢で『我が子孫である意富多多泥古(オオタタネコ)に私を祀らせれば、疫病は収まる』という神託を受けます。オオタタネコを探して三輪山の祭主にして丁重に祭祀を行うなうと、疫病も収まり、国家の守護神としての "三輪山の祭祀" が確立したとの事です。


三輪山

大神神社拝殿

柿本人麻呂 (万葉集 巻九‐1684)
《原文》春山者 散過去鞆 三和山者 未含 君持勝尓
《読み下し文》春山は 散り過ぎぬとも 三輪山は
いまだふふめり 君待ちかてに
《現代語訳》春の山は花が散ってしまったのかもしれませんが、
三輪山はまだ蕾のままですよ。あなたのことを待ちかねて。

大神神社摂社 檜原神社


崇神天皇陵&景行天皇陵
崇神天皇について第10代天皇で、実在が確認できる最初の天皇とされ、およそ3世紀前半から中ごろまで実在していたと推定されている天皇。古事記には国を平定して、灌漑事業を進め、人民が平和に暮らせるようになった最初の天皇と書かれているそうです。
古事記の崇神天皇陵に関して以下の記述があります
《原文》御陵在山邊道勾之岡上也
《書き下し文》御陵は山邊(やまのへ)の道の勾(まがり)の
岡の上に在り
景行天皇について
第12代天皇で3世紀後半から4世紀前半頃の天皇。日本武尊の父親で、九州の熊襲の反乱のときは平定の為に自ら九州に赴いたとされています。
古事記の景行天皇陵については下記の記述があります。
《原文》御陵在山邊道上
《読み下し文》御陵は山邊(やまのへ)の道の上に在り
古事記のこの2か所の記載に山邊道が記されており、
崇神天皇陵・景行天皇陵は 山の辺の道 のそばに在ると記されています。
下の写真のピンクの線は山の辺の道のルートです。古事記の記述の様に山の辺の道の所に大きな古墳が2基あります。

© Google Earth
景行天皇陵
前方後円墳 全長:約300m 高さ:約25m
あまりにも大きいので画角に収まりませんでした。


崇神天皇陵
前方後円墳
墳丘全長:約242m 周壕を含めると全長:360m 後円部高さ:約31m
後円墳部のみの映像です。
大和三山 天香久山・畝傍山・耳成山
景行天皇陵の東側の高台から見えた奈良盆地。
中大兄皇子(天智天皇) 万葉集 巻1‐13
《原文》 《読み下し文》
高山波 雲根火雄遠等 香具山は 畝傍ををしと
耳梨與 相諍競 耳成と 相あらそひき
神代従 如此有良之 神代より かくにあるらし
古昔母 然有許曾 古も 然にあれこそ
虚蝉毛 嬬乎 諍良之吉 うつせみも 妻をあらそふらしき
大和古墳群
崇神天皇陵の北側には大和古墳群と言われる古墳が多数点在しています。下の写真を御覧下さい。右側が北で、青い線が山の辺の道です。山の辺の道の周辺に多くの古墳が在ることがお判りいただけると思います。
前方後円墳、前方後方墳など複数の様式の古墳が混在していたり、多様な副葬品が出土するなど古墳の成立過程を知る事ができるそうです。

説明版より転載


©GoogleEarth
中山町→萱生町→竹之内町→園原町 の風景
大和古墳群の中に続く山の辺の道の風景です。
大伴家持 万葉集 巻19‐4292
《原文》 宇良宇良尓 照流春日尓 比婆理安我里 心悲母 独之念者
《読み下し文》
うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも 独りし思へば
写真左:中山町の家並み
写真右:中山観音寺


写真左:西山塚古墳


竹之内町付近
奈良盆地の北西方面の風景です。

乙木町付近


園原の石畳


石上(いそのかみ)神宮
今日のゴールです。飛鳥時代の豪族 物部氏の総氏神とされている神社です。
主祭神は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、布都御魂大神は日本神話に登場する霊剣 "布都御魂(ふつのみたま)" に宿る神霊とされています。
御神体としては
神武天皇の国土平定に偉功をたてた神剣 "韴霊(ふつのみたま)" 、鎮魂にかかわる神宝"天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)" 、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神剣 "天十握剣(あめのとつかのつるぎ)" をお祀りしています。
また古代百済から献上されたとされる "七支刀(国宝)" を収蔵しています。



詠人不知 万葉集 巻10‐1927
《原文》石上 振乃神杉 神備西 吾八更々 戀尓相尓家留
《読み下し文》石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神杉(かむすぎ)
神(かむ)びにし 我(あ)れやさらさら恋にあひにける
《現代語訳》
石上の布留の社の年を経た神杉のように、
神さびて老いさらばえてしまった私が、
今また改めて恋に落ちてしまいました。
石神神宮に参拝したあと、JR天理駅まで行って今日の歩きは終わりです。
天理市から奈良東大寺へ
日にちは変わり。JR桜井線天理駅からスタートです。ここは天理教の中心地で、大きな宗教施設が並ぶなかを歩いて昨日のゴール石上神宮へ向かいました。
石上神宮を過ぎると、すぐに細い山道になります。歌枕の地 布留の高橋
石上神宮からほどなく、深い谷にハルの滝が流れ落ちる所に小さな橋が架かっていますが、ここは歌枕の 『布留の高橋』 です。詠人不知 万葉集 巻12‐2997
《原文》石上振之高橋高高尒妹之将待夜曽深去家留
《読み下し文》
石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける
《現代語訳》
石上の布留の高橋のように 心も高高と
妻が待っているだろう 夜は更けてしまったことだ


説明板より転載

虚空蔵山 弘仁寺
人里離れた山の中にポツンとある高野山真言宗のお寺です。


観光地の中にある荘厳なお寺も良いですが、山の中にひっそりと佇む伽藍は落着きます。境内の隅の日陰で昼寝をさせて頂きました。体力も少し回復しましたが、それ以上に心が鎮まる感じがしました。
弘仁寺から降りた高樋町の風景

普門山 円照寺
臨済宗妙心寺派の尼寺。境内には入りませんでしたが、しっとりとした風情のお寺でした。




修学旅行の学生や海外からの外国人で賑わう奈良市中心から直線距離で4㎞ほどの所の風景です。長閑な田園風景が広がっています。

白毫寺町
白毫寺の参道手前に三叉路にあった道標です。『右 かすが ちか道 大ぶつ』
と刻まれています。
いよいよゴールの東大寺に近づいてきたと期待感が湧き上がってきます。



新薬師寺



春日大社境内
小野老 万葉集 3巻‐328
《原文》青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
《読み下し文)あをによし 奈良の都は 咲く花の
にほふがごとく 今盛りなり
新薬師寺を過ぎて200mほど歩いてT字路にぶつかったら、突然沢山の観光客が歩いていました。それも、ほぼ外国人の方達です。
大勢の観光客を見て春日大社に着いたと気が付きました。


春日大社 二之鳥居

若草山

華厳宗大本山 東大寺
奈良時代の創建天平15年(743) に聖武天皇が大仏造立の詔を発する。
天平21年(749に仏身が鋳造され。同時に大仏殿の建立。
天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養が営まれた。
鎌倉時代・江戸時代の損傷と再興
その後、大仏の損傷がみられたり、斉衡2年(855)の大地震では頭部が落ちるなどの被害が発生。治承4年(1180)には平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が消失しました。
あるいは、戦国時代の永禄10年(1567)の三好・松永の兵火で、大仏殿は焼失しました。大仏さまは仮屋に安置されましたが、仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされていました。
地震や兵火で大仏の損傷や伽藍の多くが損傷したり消失しましたが、鎌倉時代や江戸時代に再建され明治時代を迎えました。
明治の修理
明治になり、大仏殿の痛みが激しく明治45年(1973)解体修理。
昭和の修理
殿内に雨漏りがみられるようになったことから、昭和48年(1973)から7年の歳月をかけて大修理が行なわれ、昭和55年(1980)秋、落慶法要が盛大に営まれました。
このとき、歌手のさだまさしさんが 『落慶法要記念コンサート』をした映像を覚えています。
1300年ほど前に造られた大仏が幾多の困難を経て、多くの人達の努力で、今、世界中の人達の前に姿を見せている事は、宗教的な意味合いを超えて奇跡的な事と思います。
金剛力士像
写真左:阿形像
写真右:吽形像


大仏殿



金銅八角灯篭
創建時の奈良時代から残る金メッキが施された銅製灯篭。1300年近く前に鋳造されました。

廬舎那仏(奈良の大仏)



奈良の大仏の大きさ
像高:約15m 台座高:約3m 像幅:約12m 重さ:約250トン
正倉院
大仏殿から北北西に300mほどの所に建っています。
天平勝宝8年(756)に崩御された聖武天皇の冥福を祈る為に、光明皇后が聖武天皇の遺品を廬舎那仏(大仏)に献納し、正倉に納められた事が始まりです。
他にも東大寺ゆかりに品が納められ、約9000点にのぼります。
(注:現在は空調管理できる他の鉄筋コンクリート造りの宝庫に納められています)



シルクロードの終着点
西方から持ち込まれた数々の宝物が納められている事から、『正倉院はシルクロードの終着点』と言われている様に、ここから西へ海を越え、韓国、中国、敦煌に繋がり、天山山脈を越えイラン・トルコを経て地中海に道が繋がっていました。引き続きシルクロードを歩いてみたいとの思いが湧いてきます。
エピローグ
奈良は高校の修学旅行で訪れて以来、数回訪れています。今回、日本最古の道と言われている山の辺の道を歩きました。
1300年以上前から存在する道を歩き、路傍にある歌碑を読み、このページを書くために万葉集の和歌も何首か読みました。
詠み人は10代後半から老年期までの男女、多様な人達が詠んだと思いますが、当時の和歌の多くは、少年期から青年期に移る頃の様に若々しく、瑞々しい感性の和歌が多いと思いました。
万葉人の感性は、老人でも青年の様に思い悩み、青年の様に恋をして、その心情と恋を率直に表現している。万葉人が活きていた時代は、国あるいはそこで活きた人達が、青年期の様な若々しく、瑞々しい発達段階にあったのかと思いました。
尚、私は理系クラスでしたので、学生のときは古文や日本史には全く興味がなく、授業中はほぼ寝ていました。
それでも、眠い頭で聞いていた和歌や古代の歴史は薄ぼんやりと記憶に残っていて、それが今回、山の辺の道を歩いている最中に突然思い出し、あの和歌はこの光景の中で詠まれたのか。あの歴史はこの場所で起こった事なのか。などと意外と記憶に残っているものだと思いました。
テストの為にやった、当時は興味もなくつまらない古文や日本史の勉強も、歳を経てこの年齢になると、人の心情や暮らしを文字に写した、生き生きとした人の心を感じる様になりました。
という事で、このページに記載した歴史や和歌などはインターネットのお世話になりながら書いた記事が大半です。もし間違っていましたら指摘して頂けると有難いです。
END
2026年06月23日 作成
Column
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