電子足跡: 薩摩街道歩き旅 八代城下から田浦へ
薩摩街道最初の難所 赤松太郎峠を越す道

プロローグ
このページは薩摩街道を八代城下をスタートして、赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠 三つ合わせて三太郎峠と言われる薩摩街道の難所の最初のひとつ赤松太郎峠を越えて田浦まで歩いたページです。八代城下からは八代平野の平坦な道を進み、肥後二見から一転して山間の道になります。平野→海岸→山間→海岸と変化に富んでいて、広々とした平野の風景、青々とした海の風景、山深い緑の森 と街道歩きをしていてもこれだけ変化にとんだ美しい風景に出合うことは珍しいです。
難所の赤松太郎峠は、部分的に道が分かり難い部分がありましたが道標に助けられて歩く事が出来ました。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
熊本県 | JR八代駅-肥後おれんじ鉄道 たのうら御立岬公園駅 | 八代城下、球磨川、日奈久宿(温泉)、肥後二見、新免眼鏡橋,赤松第一号眼鏡橋,赤松太郎峠、赤松,田浦,田浦官軍墓地,合戦場の首塚,たのうら御立岬公園駅 | 2023/11/14 | 26.4㎞ |
kmz形式のGPSデータがリンクされています。GoogleEarthがインストールされているとGoogleEarthで表示されます。
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八代城下
現代の八代市は熊本県第2の人口を擁する都市です。wikipediaの記述を読むと、古来から博多、坊津などと並ぶ貿易港で栄えていたとの事で、古くは日宋貿易を重視した平清盛の所領で鎌倉時代は北条氏の所領になったそうです。関ヶ原の戦のあとは加藤清正が熊本城主となり、八代の球磨川の中州の現在の古城町に在った麦島城には加藤正方が入城しました。元和2年(1619)に麦島城は大地震で崩落して、現在の場所に八代城が築かれました。薩摩街道は八代城の城下町のなかを通っています。
写真右:光徳寺


八代城から東に数100m離れた薩摩街道。


薩摩街道から見えた製紙工場の煙突

城下町の雰囲気は無く、街道沿いは歓楽街になっていました。
八代亜紀さんがメジャーデビューする前に八代市のキャバレーで歌っていたそうなのですが、その "キャバレー白馬" はこの繁華街のそばに在ります。日本で現存する唯一のキャバレーだそうです。


札ノ辻元標跡
札ノ辻とは幕府や領主が決めた掟や法令などを掲げた場所で、一般的には人通りの多い場所に設置されました。球磨川の北岸の前川橋の北詰に在りました。


河童渡来の碑
札ノ辻元標跡のすぐ隣に河童渡来の碑がありました。

前川・球磨川
球磨川が中州で分流すると、中州の北側の川は前川、南側は球磨川と呼んでいます。

普賢岳遠望
中州の南側に架かる植柳橋から見えた普賢岳です。
平成2年11月17日から198年ぶりに噴火活動を再開。平成3年6月3日に発生した火砕流の映像は衝撃的でした。犠牲になられた方達のご冥福をお祈りいたします。

八代城下から日奈久宿へ
球磨川を渡ると少しの間球磨川が作った平坦な沖積平野を歩きます。薩摩おれんじ鉄道線の肥後高田駅付近で九州山地の西側の麓に行き当たります。ここからは九州山地の山裾に続く道を南西方向に歩きます。


八代平野の中を走る南九州自動車道、八代海を挟んで天草諸島の山並みが見えています。

写真を見ると随分と山の中という感じがしますが、海抜わずか3mの山裾の道です。


日奈久宿
日奈久宿は八代平野の南の端に在る宿場です。宿場であると同時に温泉地として栄えました。
熊本県温泉サイト くまもっと の日奈久温泉のページには、
『応永16年(1409)、浜田六郎が父の刀傷をいやそうと神に祈ったところ夢でお告げがあり、教わった場所を調べてみると温泉が湧き出ていたと伝えられています。その場所は今の本湯で当時は海中でした。この霊泉発見が伝えられると、六郎の孝徳とその霊験とを慕って療養にくる人が多くなりました。参勤途上の島津侯もよく利用し、江戸初期には細川家の藩営温泉に指定されました。』 と書かれています。
現在は薩摩街道から200mほど西は日奈久港です。下の図は説明板に掲載されていた図の一部ですが、かつて薩摩街道は海岸線に沿っていました。

温泉地ですが、薩摩街道沿いの街並みは温泉地特有の華やかさと云うかケバケバしさは無くしっとりとした風情の街並みです。


温泉センター 本湯・ばんぺい湯

足湯がありましたので、足を浸けて休ませて頂きました。
金波楼(きんぱろう)
100年を超えた木造建築の温泉旅館。登録有形文化財に指定されています。

日奈久宿から田浦へ
日奈久温泉を過ぎると八代平野は終わり、少しの間海岸線を歩きます。



肥後二見駅
南西に向かって進んでいた道は肥後二見駅で南に向かい、海から離れます。


八代市二見本町付近の風景
赤松太郎峠方面から流れる二見川が作った谷底平野のなかに薩摩街道が続いています。



新免眼鏡橋

嘉永6年(1853)頃に架橋された石橋です。1853年と言えばペリーが黒船に乗ってやって来た年です。
赤松第一号眼鏡橋
嘉永5年(1852)頃に架橋。
令和2年7月の豪雨による増水でも本体に大きな痛みもなく、二見川に架かる石橋のなかでも保存状態が良いです。
それにしてもこの地方の川には石橋が多く架かり、200年近く経っても現役の橋として活躍しているのは驚かされます。現代科学の粋を集めた現代の橋はこんなに長く使えるのか?という疑問が湧いてきます。


山間の曲がりくねった心地よい道が続いています。




南九州西周り自動車道

海岸沿いに道路を建設するには地形や土地の問題があるのでしょう。赤松太郎峠というかつての難所があるにも関わらず、この山間に道路を作った方が技術的・コスト的に作り易いという事なのでしょう。
赤松太郎峠
赤松太郎峠を通るには国道3号線から二見川に向かって下って行きます。地理院地形図には二見川を渡った先は道が途切れていて歩けるのか不安でした。
いつもお世話になっている
"シングルおやじの気ままな一人旅" のかっちゃん氏のホームページを読むと
『なんとなく人が歩いたような感じがある、道とは呼べないような道がついているのでそれを登る。かなり急坂だが、とにかく上に登れば旧国道に出そうだ。栗の木が植わっているのでこの場所で間違いはないようだと思いながら登ると大きな電柱の下にでて、そこが旧国道だった。』

坂を下ったところの道


畠の横に確かに道がありました。


写真左:
道が崩落しかかっていますが、地元の方がロープを付けて下さっていました。有難いことです。
写真右:
登坂の途中にあったコンクリートの構造物。地理院地形図には道路が描かれていますので、道路の痕跡だと思います。


旧国道との出会い

旧国道を歩き採石場の隣に続く旧薩摩街道を歩きました。


赤松太郎峠を越します。採石場からはすぐです。

峠を越してすぐに田浦の海が見えました。山の上から見る海はひと際 奇麗に見えます。

谷筋の道になります
一瞬、道標が壊れて斜めに傾いたのかと思いますが、ここからは旧国道を離れて谷筋に道になります。
谷筋の道ですので、豪雨の後などは通行困難になるかもしれません。実際私が歩いたときは一部でしたが、道筋が分かり難い部分がありました。
状況に応じて舗装された旧国道を歩いたほうが良いかもしれません。




道に迷いました
下の写真の道なのか沢なのかよく分からない場所で道が分からなくなり、半径20mくらいの範囲で10分弱ほどウロウロと道を探しました。
右の写真の道標が見つかったので事なきを得ました。これまで何回か経験しましたが、地図アプリにルートを登録して歩いていますが、沢筋の道は涸れ沢なのか道なのか分かり難く迷う事があります。


写真右:十六里木跡


赤松地区
赤松地区に近づくと舗装道路に出合い少し進むと民家があります。人の気配を感じるとホットします。


写真左:合戦場の首塚
写真右:田浦官軍墓地
詳しい事は分かりませんが、西南戦争で鹿児島に進軍する新政府軍と旧薩摩藩士軍は赤松地区や田浦地区で戦ったのだと思います。旧薩摩藩士軍にとっては、難所のこの赤松太郎峠やこれから越さなければならない佐敷太郎峠・津奈木太郎峠は重要な防衛線だったのだと思います。


田浦宿はもう少し先なのですが、駅名で言うと田浦の手前の たのうら御立岬公園駅まで歩いて行動は終わりです。
ふろく 八代海の風景
歩き終わってから車で 御立岬公園のシンボルタワー に行って八代海の風景を楽しみました。


エピローグ
歩く計画を立てているとき、赤松太郎峠の道が歩けるのかかなり不安でした。現地に行って歩けそうもないようなら、薩摩街道の少し上を通っている旧国道に迂回して歩こうと考えていました。田浦方面に下る沢沿いの道が部分的に荒れていましたし、実際に10分弱道に迷いましたが所々設置されている道標に助けられて歩く事ができました。薩摩街道を整備されている方々に感謝申し上げます。END
2025年05月15日作成
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